「音楽の自由への歩み」

けどね、ひどい耳とひどい腕のおかげでいいこともあるのさ。
「レット・イット・ビー」の曲中のコードスケール上で「使えるノート」をリードミスにより偶然発見するという荒裏技を会得。
使える音の中でも民族音楽的な響きがお気に入り。
「おおっ、この民族チックな響きは、我が心の師コルトレーンが辿った道と同じではないかぁー!」
と、カラオケボックスで夜な夜な一人で興奮しながらラッパを吹いているわけです。

で、調子にのって吹けば吹くほどにエントロピーとともにリードミスが増大するおいらは、ふと、気付きました。
コードスケール上で「避けるべきノート」って必ずあるけど、
それって「音楽的な善し悪し」から定義されるというよりも、
プレイヤーが(聴く側も)『その曲、そのスケール上でイメージし辛い音』であるというのが本質ではないかと。
そこでもし、プレーヤーがその「ハズレ音」を『タイミング的に音色的にイメージできたとしたら』その「ハズレ音」を堂々と鳴らすべきだと。
それもしつこいくらいに使う。
「リードミスじゃないかんね!この音が好きで吹いているんやからね!意識的に使ってるんだぞー!」と聴衆にアピールしながら。

思えば、そういう高慢ちきで独りよがりなプレーヤーと、そのプレイに馴らされてしまった聴衆によって、音楽そのものが進歩し拡大してきたのではないかと。

『今まで脈々と続いてきた音楽の自由への歩みを、俺の番で止めるわけにはいかない』
…なんて、二重括弧で格好よく言うてみたものの、
おれは、誰からも音楽のバトンを渡されていないのさ。
悲しー。