川を越えるにはいくつもの方法があり、

ベッドに横たわり手足をピクリとも動かすことができないおやじは、
唯一の意思伝達手段として懸命にしゃべろうとする。
喉に穴を開けて人工呼吸機を繋げてあるため、呼気が声帯を通ることはなく、発声は不可能。
声を発しえないことをわかっていないのだろうか、機械がビービーと警告音を出す程にしきりに口を動かす。
薄く開いた右の白濁した目で俺を見ている。
「死なせてくれ、俺を殺せ」と訴えているのだろうか。
せめてその意思に俺が確信できるほどに、あなたは自分の声を取り戻さなくてはならない。
誰の心にもとどくような声を。
誤って人工呼吸機のコードに足を引っ掛けた俺が、永遠に胸を張れるほどの叫びを。

何年ぶりだろうか村を歩いた。
子供の頃、何も考えずに歩いて渡った鉄橋。
単線で逃げ場がなく川の真ん中にいる時に列車が来たらアウトだった。
その鉄橋の上流にコンクリート作りの古い橋がかかっている。
何も考えずに昇って歩いた橋の欄干。
幅30センチ足らずの生死の境目を口笛吹いて歩いた。
子供の頃の何も考えないで無茶をする時の「何も」は「死」であることが多い。
やがて大人になりテレビタレントが死に、遠い親戚が死に、祖父が死に祖母が死に父が死に母が死ぬ。
徐々にジワジワと「死」があらゆる臭いをともなって頭に滲んでくる。
それはいつの日か頭に充満しやがて人は死ぬ。
「死」が「死」の飽和によって成される時を寿命と言おう、心の寿命と。
おやじに心の寿命が訪れたのかどうかは、わからない。

あの時、俺が数センチ端に寄って歩いていたら、
この世界はどうなっていただろうか。