5月5日その三

三人の阿吽の呼吸というか自然の成り行きというか本人のほとばしるやる気というかで、あっという間にYウがリーダーにおさまった。
ゴールデンウィークの頭から入っていて僕たちより数日先輩である熱きリーダーYウがボランティアの依頼内容が書かれた紙を見て難しい顔をしている。
そこには「依頼者は、先ごろお父さんを亡くされているのでその心境に配慮した言動、行動をしてください」と記されてあった。
そういうことを気にすればするほど裏目にでる私は、そうだな、見なかったことしよっと。
SンとYウと俺の三人はSンノスケ号に乗り込み今や単なる目印でしかないホームセンターの残骸を折れて大沢地区に入った。
見通しのよい平地は数十軒もの家が軒並み流されてしまった跡地であり、今さらどのような町並みであったかなんてわかるよしもない。
そこらじゅうに山となっている瓦礫を縫うように、かつての町の数少ない痕跡である網目上のアスファルト道路が走っている。
しばらく行くと道を挟んで二軒の家がポツンポツンと仲良く建っていた。
左手の新しい家にはもはやお馴染みの「解体OK」の赤い文字。
我々Sンノスケ号が滑り込んだのは右手の古い家。
その家の裏には40メートルもいかないうちに、ま新しい防波堤が無傷のままそびえ立っていた。その間にあっただろう家数軒は土台と瓦礫以上の何もなくて。
家の右手には土台と瓦礫が延々と続いていた。
ぼくは人生初ボランティアの現場を見て、なんでこの家が残ったのかまったく不思議に思えて「神様の気まぐれか?はたまた奇跡か?」と思わずにはいられなかった。
そうは言っても無傷なわけはなくて、壁には尖った丸太がぶっ刺さってるし屋根は角が激しく壊れて痛々しい。
そしてよく見ても見なくても家全体が傾いている状態でいわば満身創痍。

元気よく「おはようございます!」と大声をだしながら玄関を入ると、俺たちよりも元気のいいおばあちゃんOカワhサコさんが迎えてくれた。「おはようございます!!」
土足のまま二階に上がりおばあちゃんが「ここまで津波が来たの」といって指した壁には、悪魔の境界線が走ってた。ぼくの身長を越えていた。

「この家を二階から全部水洗いして頂戴っ!」
「えっ?」
「高圧放水ホースは用意したので、それで水をかけてブラシで擦って頂戴っ!」
「ほへっ?」
「この洗剤を使って頂戴っ!」とマジックリンだの混ぜるな危険だのと口の開いてない洗剤が5本も6本も用意されていて。
「ぐえっ?」
えぇーっと、この家はどこからどうみても木造でして、畳は剥いであり板の間になっていて、この二階をジャブジャブ水かけて洗うと床板から下の張りから一階まで何から何まで水浸しになってしまい、いやはやいくら津波を被ったとはいえ、もう一度二階から水をかけて、もしカビが生えたり木が腐ったりしたらそりゃえらいこっちゃでー。
それに見たところブラシで擦らねばならぬほど汚れていない。溜まっているのは砂また砂の砂嵐。
ぼくは言った「おばあちゃん家が痛むのでこの二階の部屋に水をぶっかけるのはやめましょう!そのかわりここはぼくらが一生懸命水拭き雑巾がけしますから」
おばあちゃんはわかってくれた。

あとでボランティアは依頼者に言われた通りにやらなくてはならない、などと誰かから聞いたような気がするが、それはおかしな話しで俺たちは奴隷じゃない。
依頼者の要望と、ぼくたちがやれることややりたいこと(最終的に要望を満たすためにより効果的だと思われる方法など)とのセッションの中から具体的に作業内容や作業目標が決まっていくのがいいんじゃないかな。
何せ依頼する側はもちろん、俺たちも生まれて初めての作業であることが多い。両者で話しあいながら臨機応変にやっていくのがいい。
依頼人と仕事請負人の関係ではなくて、助けられる人と助ける人でもなくて、
困った時はお互い様よ!みたいなご近所さんみたいなノリが一番だと思う。つまりシンプルに人と人。
などと、思いつつも、
Sンが呟いた「津波の痕跡を少しでも消し去りたいんだな」という言葉にも重みを感じたりして。

それでも底抜けに明るいおばあちゃんは、どんどん俺たちに作業内容も手順も任せてくれるようになり、笑いながら「いいのいいの好きにして頂戴!おまかせっ!」と言うようになっていった。

まず二階の砂の掃き掃除を、一部屋一部屋丹念にすればするほど気になる砂よコノヤロー!
昼からはボラセンから持ってきたブルーシートでぶち抜かれた窓を塞いだ後、Sンはかつてやってた杵柄で窓ガラスをピカピカに仕上げていく、ぼくとYウは入念に雑巾がけを始めた。
午後3時に「はいはい!休憩しましょう!手を休めてお茶を飲みましょう!」というおばあちゃんの声にみんなは一階に集まった。
コーヒーを戴いたり馬鹿でかいドラ焼きを戴いたり娘が送ってくれたという鹿児島の徳之島の蜜柑を食べながらおばあちゃんが話ししてくれた。
「いつもなら午後2時半に介護士がお父さんを迎えにくるんだけど、その日はなぜか早くて2時に迎えがきて、お父さんは船越にある介護施設に向かいました。
それからしばらくして、激しい横揺れがきてその後に強い縦揺れがきて、置物が倒れずにそのまんま上に跳ねているのを見て津波がくる!ってピーンときた。
なぜわかったかというと、大おばあちゃんから「横揺れの地震は大丈夫だけど縦揺れは津波がくるから逃げなさい」と教わっていたから。
それで急いで車を運転して友達を拾って山のほうへ逃げました。
山から大沢が津波にのまれるのを見ているしかなかった。
お父さんとは一切連絡がつかなくなったが、船越の介護施設は高台にあるから大丈夫だろうと安心していました。
津波から5日たって徳之島にいる娘から電話があり、お父さんが遺体で見つかったということでした。
先生たちが何往復もしてくれて高台にみんなを運んでくれたけど、間に合わずに先生も一緒にのまれてしまったということでした。
どうやら船越を越えてきた波と山田湾から入った波がぶつかって高くなって施設を襲ったらしいです。
五体満足で静かな顔していたのが救いでした。花巻に運び火葬にすることができました。
家族がまだ見つからずに毎日毎日、海を探し歩いている人に比べたら私は幸せ。
寝たきりになってから八年間お世話してきました。してあげられることは全てやれたと思ってます。今はそうやって気持ちを落ち着けたところ。」
ぼくは、顔を下げたらいけないと思いながらボロボロと落ちる涙もそのままに聞いていた。
「私は悩みました。ここに来てお父さんに聞きました。「お父さんはどうしてこの家を残したのですか?あたりの家は全部流されたのにどうしてここだけ残したのですか?」と。」
そして、
「わかりました。私はここをみんなが集まる集会所にします。みんなが集まるお茶飲み場にします。それでいいですね?お父さん」
ぼくは相変わらずボロボロと涙が止まらないどころか、嗚咽を止めるのに必死な状態。
それを気付いてか気付かずか?そりゃ気付いてるよな目の前だもん、おばあちゃんはなんだかしてやったり顔で語っているようで。
まったく、たくましすぎるぜ!たいしたばあちゃんだよ!