「美の最終定理」。詩人たちよ!

詩ってのは、まったく個人の経験や感性に属するもので本来ならば、他者が批評し得ないもの。
あなたの詩を読んだ人が「いいなぁ」と思ったときは、それはたんなる「共鳴」でしかない。あなたが編んだ詩と、それを読んだ人の感性や経験とが共鳴を起こしただけなんだ。あなたの詩に対する批評や反応は「あなたと読む人の感性の隔たりの問題」でしかないのだ。
どーだ、まいったか!

詩が、他者の批評に飲み込まれたとき、次に生まれる詩には「批評を気にかけるという歪み」が知らず知らずのうちに組み込まれてしまう。
それはすでに「詩」ではない。
例えその詩が世界中から称賛され賛美されようともね。
その時は「世界は100%のまがいもの」だったってことさ。
どーだ、世界よ!まいったか!

画家のゴッホを見よ。
彼は生きている間、一枚の絵も売れなかった。それでも彼は描き続けた。
なぜならば「描くこと」がイコール「生きること」であったから。
そして彼が亡くなってから何年もたってから「すごいよ、このひまわり。ゴッホは天才だよ」と、時代のほうがゴッホにやっと追い付いたということなんだ。
どーだ、時代よ!まいったか!

しかしながら、死んだあとの評価なんてのは実にどうでもいいことで、
もっとも重要なのは、彼は「絵描きとして苦しみ、絵描きとして生き、絵描きとして死んでいった」ということであり「本人がそれを強烈に望み、叶えた」ということにあるのだのだ。
国や時代、評価、経済、生活に関係なく彼は画家であったってことさ。
詩人はよく知らないけど、ランボーだって世間的にはひどい生き様だったろ?
けど彼は「詩人」であったというわけさ。

俺は人の反応や評価、環境や生活、時代や世界に関係なくして、
あなたは「詩人であるのですか?」と問うているのです。
もしあなたが、言葉を紡ぎ、詩を書かなくして生きていけない存在だとしたら「詩人として苦しみ、楽しみ、詩人として生き、詩人として死になさい」と言っているのです。
たとえ誰かに打ちのめされようとも、賛美されようとも、詩人として存在するあなたにはまったく関係ないことなのです。

さてさて、それでもなお世界には、賞賛し賛美するに値する詩が存在する。
それはなぜか?
その答えを示すには「個々の感性や生き様を超えた『美』の存在」を語らなければなるまい。

それを記すには、この場ではスペースが狭すぎる。
「美の最終定理」。