「神の存在」「神の不存在」

今だかつて、神の存在を証明した人間はいない。
今だかつて、神の不存在を証明した人間はいない。
今だかつて「1+1=2」であることを証明した人間はいない。
だがこちらの数式は証明を必要としない。なぜならば「ルール」として人間が作り了解しているものだから。
さて世界には、神の存在をルールとして生きる人間がいる。
神の不存在をルールとして生きる人間がいる。
そこで、とりあえず「神」を横に置いておき「存在性、不存在性」だけを取り出して考察した時、「存在性、不存在性」それ自体が人間の「ルール」としてあるのではないのか?
人間が作りあげて了解している「ルール」を元にして、いくら「神」を語っても「神」に近づくことはない。
「神が存在する世界」も「神が存在しない世界」も『神から、逸脱した場の物語にしかすぎない』『我々人間は神から逸脱し暴走するように作られている』そして『もし我々が、神の子であるならば、神は子である我々の逸脱した暴走によって殺されるのを望んでいる』
かつてニーチェキリスト教が神を殺したと嘆いたが、神は一宗教ごときに殺されるほど間抜けではない。もっともニーチェがいうところの神は「GOD」ではなく「(god)」であるのだろうが。
神は人間に殺されることを望み神殺しの罪あるいは神殺しの手柄を人間に残すことにより「何か」を成そうとしている。
「何か」はその時にしか解り得ない。
我々は神の名のもとに、あるいは主義主張の名のもとに最後の命が尽きるまでお互い殺しあわなければならない。我々は神に思いを巡らす我々を地上から抹殺することにより「我々の神」と心中しなくてはならない。
そのあとに訪れる者は?
いつの日か別の日か、殺されゆく神とともに踊ろう。

さてさて「おいらの神はどこに行った?とりあえず横に置いてたっけ?」
『神よ!君はそこにいろ!永遠に!』
仕事しながら30分間くらい、神の存在について考えていた。
仕事七割、神三割くらいで考えていたわりには、すごく重要なことが含まれているような気が…。