神サイの三

最先端の量子学までいくと俺もアインシュタインも頭がついていけないので、物理学まで時計をもどす。
物理学は決定論だ。
ビリヤードのナインボールに例えたとき、
ブレイクショットの方向、スピードや回転、ボールとラシャとの摩擦具合など全て計測できれば、散らばったボールの最終形は決定できる。
ブレイクショットを打った瞬間に最終的なボールの位置が決定する。
ボールが走っている時点ではすでにボールの散らばり具合は決まっているのだ。
未来は過去によってすでに決まっているとなれば運命論とも言えるだろう。
世にあるものは全て物質の存在である以上、物理の法則から逃れることはできない。
人の心とて細胞の化学反応と電気パルスの産物でしかない。
原因が結果を産み、またその結果が原因となり結果をもたらす。
宇宙が始まって以来脈々と連なってきた摂理。
過去も今も未来もすべて、
宇宙が始まった瞬間の物理運動によってすでに決定されている。
俺が、あなたが、
この先、どこでどんなふうに生きるか、
いつどこで何が原因で死ぬかは、すでに決まっている。
それを変えることはできない。
必然も偶然もなくて
「ただそうで有った」としか言えない世界。
神が途中でサイコロを振り、あなたの存在を変えあなたの未来を変えることもなければ、
あなたの自由意志によって未来が変わることもない。
もともと自由意志なんてものはない
「自由に選択したのだ」という心を持つことがあらかじめ定められているだけ。
悲しいか?淋しいか?希望を無くしたか?
だが落胆することはない。
未来はすべて決まっている、
が、しかしそれがどのような未来であるかは俺たちには解らない。
俺たちは、初めて通る道を歩いている。
この先に待ち構えている風景が予め定まっているにせよ、
それは俺たちにとっては未知の世界。
その未知の世界で自分がどのように振る舞うのか?
そしてその振る舞いが原因となりどんな結果をもたらすのか?
この先どんな人と巡り合うのか?
未知と初体験の連続。
本人にとってそれは
「未来は無限の可能性に満ちたものであり努力次第でいかようにも変えることができる」と何ら変わることがない。
結局、好きなように生きるが一番ということだ。