「命の唐突さ」のγの次

俺たちさまは、毎日毎日、幾多数多の命を喰らって生きている。
食物連鎖と云うけど食物ってのは、命そのものだから、命の連鎖と云ったほうがいい。
けどまぁ、大型生物の全ては「他の命を喰って生きる」という地平の元にしか存在できん存在であるわけであるわけやから、
そんな、食う命にペコペコと謝りながら、ガチョウの脂肪肝を食べなくてもよろしい。
「謝るくらいなら最初から健康に育てろよ」とガチョウだって思っているはず。
まぁまぁ、食べる前の「(命を)頂きます」の一言くらいの意識でいいです。
そんなことよりも、俺がかれこれ13分前から問題にしているのは、命のバトンリレーという側面。
人様の屍を火葬して灰にして「ハイ、サヨウナラ」だと次の命が生まれない。
屍は裸にして、土の上にテンと置く、
やがて、獣が齧りウジ虫が貪り、バクテリアが分解してくれて土と化す、
それを滋養として草木が育ち、花が咲く。
一つの命が次の多くの命を生み育てる、命のバトンリレー。
残された遺族は、草木や花々を見て慈しみ、
キツネやタヌキに微笑み、熊に襲われながら、
故人の命と山々の命の連続性に感謝し包まれながら暮らす。
やがて、その時がきたら自分も土の上にテンと乗り、自然に還り故人と一つになる。
命を尊ぶってそういうこと。
火に焼き小さい骨にして見せ、
みなが、生き返る可能性に縋りつく余地のある遺体から、
奇跡も希望も悲しみさえ受け付けない乾いた小さな白い骨への変わりように、
愕然としている最中に
「これはこれは、いい色が出てます、いい形です、とてもありがたいことですよ」などと骨を見た坊さんが、
とって付けたように言ってみせ
やがて、真っ暗な墓にしまい込んで蓋をして「ハイ一丁上がり」と一段落をつけてみせる、
それらの一つ一つが全て、
遺族を悲しみの底から、日常へと一歩一歩一段一段、導いてくれているという意味も必要も、痛いくらいに知っている、
けどさ
そこら中の草木や花々、鳥や雲に風に、
故人を感じて、ハミングしながら生きてたほうが、俺は楽しいなぁ。