ア、サッテ、あ、さって!

ポンパ!
君は、今回の芥川賞「アサッテの人」を読んだろうか?
この小説半ばに登場するチューリップ男は、
何を隠そうこの私なのであるのである。
私は、エレベーターで一人になったとたんに、
ありとあらゆる「アサッテ」をやっているのだ。
エレベーターの扉が閉まるやいなや、私は素早く全裸になりプッアにぃラサガリョー、
逆立ちをかうこるぶだしてンボコウンボ、
純真無垢な心の発露をタポンティニュー。
社会に棲息するアサッテの人は、
あるがままの魂の叫びをひた隠しに隠して、
毎日を「フツウな人」として暮らしている。
それがエレベーターという大都会の隙間、小さな密室でほんの一瞬、
ハナヒラクのだチリパッパ。
アサッテ属科の人間の中で、ごく稀に裸で逆立ちをしたままにエレベーターを飛び出してしまう奴がいる。
そういう人を世間さまは、芸術家と呼んで崇めたり、狂人と呼び畏れたりしている。
芸術家の正体は「勇気あるアサッテくん」なのだ。

ある日ある時、黄色と紫のツートンカラーの大蛞蝓が、
六本木屁ルズのエレベーターから飛び出してきて、
「ンもンもヨケラヒょヌクれみニャー!」と叫びながらピョンピョン跳ねたら、
おめでとう!それは、俺で、俺という芸術の誕生なのである。

ところで、受賞作「アサッテの人」は、小説の中に作者自身が登場する小説だ。
「作者Aが(Bを主人公とする小説)を書いている小説」という入れ子構造になっているのであるが…、、残念だな。
(主人公Bの行動やその物語)が、「作者A自身の現実世界」に
何をもたらし、あるいは何をもたらしつつあるのか?
が、まったく描かれていない、
実にもの足らない。
最終的主人公である作者Aの物語は「何もない」のだ。
「作者Aよ!おまえはいったい何のために登場してるんだい?」と問いたくなる。

こうした入れ子構造の小説の醍醐味は、
小説中の主人公と作者という主人公とのデロリョンな関わりあい、
あるいは、二重構造による視点のヤバりばならにあるのだ、

と、考えるに至り、
今回の芥川賞「アサッテの人」は、あんまし心に残る作品ではないなぁ。。