@「JET即興リレー”5分でどうだ”」の二曲目

ダンサーがワンステップして右手を伸ばした。
私はそれを見ていてその動作がなんであるのかが解る、またある時はその動作以前の心の動きすらわかる。
それはダンサーを私の肉体と心に当て嵌めることができるから。
ダンサーと一つになり舞うことができるから。
バイオリニストが弦を優しく撫でている。
ゆったりと揺らぐ音そのものの意味は理解できる
しかし、バイオリンを触ったことのない私にはその音以前の奏者の心はわかりえない。

翌日、前回の即興デュオ十番勝負の時に、おいらをギターのAMさんに紹介してくれたmkちゃんにメールした。
「昨夜はダンサーaさんmさんにすっかり喰われました。
何も持たずに肉体一つで舞うほうが、楽器持たなきゃただの人の俺達よりも遥かに説得力があるんだなと、
ショック受けた」。
そしてmkちゃんから返ってきた言葉。
『確かにダンスの説得力は凄いよね。
ちまちま楽器いじるのやめたくなる。

でも音は個の存在を超えて存在するもの。プレイヤーが単なる媒介に過ぎなくなった時点で初めて真価を現すのではないかしら。』。
なんて素敵な考え方なんだ!
mkちゃん素晴らしい!
そういえば、極々稀にクラシック奏者が演奏中に何かが降臨したとしか言いようがない状態になることがあると聞いたことがあるが、
それは演奏者が単なる媒体と化した最終形なのかもしれない。
太鼓の師匠はよく「太鼓と一つになれ」と言うがそれも同じことを言ってるのだろう。
我を越え個を越え、最後には、ただ一つの音と成る。

おいらはいつもただ、我をストレートにバーンと出すのを目標に演ってる。
聴く奴のことなんて知ったこっちゃない。
我さえよけりゃいいのだー!
すいません、まだまだ幼稚園児のパンクなんですぼく。
媒体と化す、音そのものになる。うーん遠いなー
遠いというよりもおいらベクトルの向きが反対なような?
いっそのこと我の脳内を全部ぶちまけて空っぽになって無になるかーっ!
単なる媒体と化し神に操られてドを吹き、神を蹴飛ばし我100%でレを吹き、ただミという音になってミを吹く。
ただ今ドレミを勉強中。

私は狂人になりたい。

↑と、思うことができるのはすなわち今現在、私は狂人でないことの証明なのである

のか?