@八まごめに置き土産の第三打

三ヶ月過ぎた頃、体調を崩して病院に行った。
バリウムを飲まされて上になったり下になったり精密検査を受けた。
医者から「とても小さな腫瘍があるので半年たったらまた検査にきてください」と言われて喜んだ。
「その小さな腫瘍とやらが大きくなれば死ねるのか」と。
自死遺族の苦しみを知る俺がそれを与える側にたつのは許されることではないが、病死ならしようがないだろ。
これでみんなの心の傷になることはないと思った。
rと呑む以外は、機械のようにこなす毎日。
朝起きて会社に行き仕事をして帰って寝て悪夢にうなされて起きる。
火曜日はこれに太鼓の稽古がついただけ。
休みの日は何をしていたのか今となっては思いだせないが、おそらく何もしてなかったのだろう。
昨日と今日と明日をいくら入れ替えてもまったく変わらないような日々。
そこでただ突っ立って食って排泄だけしている機械人形に、人間くさい何かがあったとすれば、突然泣き崩れることと会社の窓から飛び降りたくなる衝動との葛藤。
それでも会社では努めて笑うようにしていた。
気遣われること自体が辛かったから。
笑うことに疲れてそろそろ限界だなーと思い始めたある日の夕方、会社の後輩が暗くなった外を見て「すっかり日が短かくなったねー」と言った。
その何気ない一言になぜだかボロボロと涙が溢れて、その涙のぶんだけ心が軽くなったように思えて
もう少しだけ生きてみようと思った。
半年がたちさらに一月がたち年が明けてrからの電話。
「お父さんが亡くなった。葬儀に来てほしい」と。
hの葬儀に遠いところ来てくれて「俺の主食は日本酒だ、酒は米からできているから間違ってないだろう」と笑って酒ばかり呑んでたrの親父さん。
その時すでに患っていたこととあまり芳しくないことは知っていたのだが。一緒に酒呑みたかったな。
「ごめん葬儀に行けないよ」
今はhのことで心が限界で、辛い席に出るのは到底堪えられないと思い断った。
そしてすぐさま自分を呪った。
この半年、rと呑みながらhについて話すことでのみ生きてこれた。
rが毎日のように声をかけて引っ張りだしてくれたから俺は生きてこれた。
rは命の恩人そのもの。
そんな掛け替えのない大切な人が父親を亡くして耐え難いほどに悲しんでいるというのに俺は自分のことしか考えずに。
改めてわかった、俺は骨の髄まで最悪なんだな。
小さな腫瘍はどうなってんだ?
ちっとも具合が悪くならねーし、
どこまで逃げても自分の腐臭だけが鼻につく。