5月4日その壱

5月4日
朝7時過ぎ、ションベンに起きたらGイチが出かける支度していた。
「けんじくん俺今日ボランティアに行ってくるわ、明日はもう東京に帰らなきゃならないし」とキリリとした顔で。
「おーっいいねー初ボランティアがんばってらっしゃい!夕方連絡してやー」と寝ぼけた顔で返事した。
立ちションそしてまたぼくは寝袋の中へ。


村長が昼飯を作ってくれたので遠慮なくガっついてたら、一人のおっちゃんがテクテク歩いてやってきた。
「Sシハタですー!」
音程でいうとミソファミソミーかな?
2つのソ「シ」と「で」にアクセントつけてくださいね。
「Sシハタですー!」

Sシハタさんは宮古市北部で牧場を一人できりもりしていて、今猛烈に男手が欲しいらしい。
(今だけでなくてずっと昔から猛烈×∞に嫁が欲しいということなので、我こそは牧場主夫人にと思う女子はぼくに連絡くださいな、すぐにでも取次ぎまっせ!)
ぼくたちが「ボランティアにきました」と言ったら「ぜひうちに来てください」とSシハタさんに誘われた。
「半月でも半年でも牧場にいてくれたらいい、お金も出します。」
ぼくは「いえいえとんでもない、お金なんかいりません、ぜひ」と答えた。
「では、明後日6日にまたここに来ますのでその時に打ち合わせして、翌7日に牧場にきてください」と。
「はい、お願いします」
「では今日はこれで」とテクテクと歩いて帰ってった。

あとで考えたら
ぼくの頭の中
ボランティア=津波の被災者のお手伝い。
Sシハタさんの頭の中(推定)
ボランティア=村長の手伝い=農家のお手伝い=牧場の手伝いでもOKでしょ。
あちゃー、やっちまったか俺?
あとあと面倒なことにならなきゃいいが…。

昼からSンノスケ号の助手席に村長を乗っけて宮古市巡り。
宮古駅を過ぎて港に向かった。
市街地の日常から一転していきなり始まる生々しい津波の爪痕。
傾いだ家、形ない家、ひしゃげた車、打ち上げられた船、そしてあまりにも巨大な瓦礫の山。
浄土ヶ浜に行くと村長が説明してくれた、海岸線の形が見る影もなく全然変わってしまったと。

午後3時ごろドラッグストア薬王堂で高速バスとローカルバスで来たKムラを拾って4人で北へ車を走らせた。

田老町
峠を下り見通しのいい平地に出た。
「このへん全部家が密集して建ってたんだ、一軒も残っていない、恐ろしい」村長が呻いた。
建物らしい建物は一つもなくて何もない平地にへばりついている土台の数々、一瞬にしてぼくは言葉も思考も感情も失くした。
この町で起きたことを少しでも想像してしまわないように。
野っ原と呼ばれる地区に行った。
ここは古い堤防の外に家を建ててその外に新しく堤防を作った場所だという。
堤防と堤防の狭間の家々は、やはりというのも辛いものがあるが、綺麗に土台しか残されてなくて。
落ちているコンクリートの橋はどこから飛んできたのかさえわからない。
ま新しく巨大な堤防は見るも無惨に破壊され飛ばされてた。

山の手にある田老町支所にいき、ボランティアの受付状況を尋ねた。
「この先の橋を渡ってすぐ左折すると社会福祉協議会がありますのでそちらで聞いてみてください。どちらからですか?」
「東京からきました」
「それはそれは遠いところありがとうございます。
…、実家も家もみんな流されてしまって、もう笑うしかないですよ」とおっちゃんは呟いて笑った。
「かける言葉がみつかりません」ぼくは一礼して足早に外に出た、おっちゃんの目から涙が溢れてしまう前に。

追記
津波の爪痕を見たまんま言葉で描写しようとするとき、つい「綺麗さっぱりなくなって」とか使ってしまう、
家をそっくり流された人はどう思うだろう?肉親や友達を流された人たちはどう感じるだろうか?
部外者の俺の「綺麗さっぱり」などという言葉を。。